[screened at 2011 Rotterdam International Film Festival]
徐童監督とドキュメンタリーにでてきた唐小雁さんが、
*日時:2011年12月12(月) open: 17:30 start: 18:00
*会場:remo/ 大阪市住之江区北加賀屋5-4-12 [see map]
大阪市営四つ橋線北加賀屋駅四番出口
tel/fax 06-6686-5757
*入場無料
*協力:中国インディペンデント映画祭
*お問い合わせ:アンダーグラウンドの後でー中国ニューインディペンデント映画の現在@大阪
e-mail: maraninhk(at)gmail.com TEL:080-42316997 http://filmunder.blogspot.com/
○ABOUT THE FILM:
『占い師』 算命/Fortune Teller/2009年/129分/フォーマット DVCAM/字幕 Jp
あらすじ:体に障害を持つ厲百程は、体と脳に障害を持つ妻とともに、路上で占い師をして生計を立てている。彼の客は主に場末の娼婦たちである。厳しい現実の中でも、彼らは笑顔を絶やさず、そして常にしたたかだ。中国の底辺に生きる愛すべき人々を見つめる徐童監督が長期取材した、厚くて暖かいヒューマン・ドキュメンタリー。
監督:徐童(シュー・トン)
1965年北京市生まれ。中国伝媒大学卒業。かつてはスチールカメラマンをする傍ら、小説を発表していた。デビュー作『収穫』(08)が世界で評価され、ドキュメンタリー作家に転向。本作が2本目である。3作目『老唐頭』も今年完成し、各国の映画祭で好評を得ている。
○ organizer'sのコメント:
我不知道人生有多少次机会,在三十岁之后,因为看了什么听了什么而改变对世界的看法,和人生的态度。《算命》就有这样的力量。在认识徐童之前,我没有这样接近过这群人。近,不仅是物理的概念,在这里还是一个心理的概念。这是为什么,徐童的三部纪录片被命名为“流民三部曲”,而不是“底层三部曲”。看“底层”,我们还是脱不去那种“向下看”的倾向,去怜悯,并赋予自己拯救者的身份;而“流民”是历史上就存在于中国社会中的一支,他们有自己的生活方式,自己的价值体系,自己的社会阶层——只是和“我”的不一样而已,道德是一个相对的概念。这让我的去怜悯、去拯救的企图,都显得自大而可笑。去接近每一个片中人物,都像是在拿手术刀解剖自己。
30歳を過ぎてから、何かを見たり聞いたりして世界の見方や人生への態度が変わるということが、人生に何回あるだろう。『算命(邦訳:占い師)』にはその力がある。徐童に知り合う前に、「そういう人たち」に近づいたことはなかった。近いというのは物理的な概念であるだけでなく、ここでは心理的な概念だ。それはなぜか。徐童のドキュメンタリー三部作は、「下層社会三部曲」ではなく、「流民三部曲」と呼ばれていることに注意したい。「下層」を見るというと、我々は「下を見る」という感覚から抜け出せない。他者を哀れみ、自分をまるでヒーローのように感じる。「流民」の概念はそれとは違う。「流民」とは歴史上中国社会のある一部として存在しており、自分たちのライフスタイルと、価値観の体系、社会階層を持っている人々である。ただ「私」とは違うというだけだ。道徳とは相対的な概念でしかない。ここにおいて、彼らを哀れみ、救おうとする考えなど噴飯ものだ。我々がこの映画の登場人物たちに近づこうとするとき、それはまるで手術メスを持って自分を解剖しているようなものだ。
《算命》甚至让我改变了对纪录片的定见,光看章回体小说的子标题和结尾的八十年代流行歌曲,难道这不是一部剧情片吗?为什么不?这部片子的浓厚程度(Density)超过了这几年你能看到的中国独立故事片,造梦什么的事情原来不仅是故事片专有。同时,这样的作品又少不了生来带有的疑问,究竟纪录片的界限在哪里?纪录片作者的道德应该如何定义?作者本身,和跟随作者到各种放映的片中人物,一起又是一个值得讨论的行为艺术。
『算命』は私のドキュメンタリー映画に対する見方をも変えた。章回体の小説のような章ごとのタイトルと、終わりにある80年代ポップスだけを見ると、まるで普通のドラマ仕立ての映画のようだ。なぜ普通の映画と似ているのか。それは、この映画の「濃度」がここ数年の中国のドキュメンタリー映画を越えているからだ。夢を描くというのは、普通の映画でなくてもできるということの証だろう。と同時に、ドキュメンタリーの作品はそれがもともと持っている問題から離れられない。ドキュメンタリーの限界はどこにあるのか。ドキュメンタリー映画の監督の道徳観はどう定義できるのか。監督と、監督が映画に出てくる人物たちを追っかけるということを一緒にすることで、それはおもしろいパフォーマンスアートとしても捉えうる。[文: Wang Jue/訳:石塚洋介]